Masuk小春を抱きながら樹が車まで戻ると、運転席から秘書の
「傘を」
「今さらだ」
樹が後ろのドアを見たため、柳沢はドアを急いで開ける。
小春を抱えたまま器用に樹が車に乗り込む。
樹が小春に向けた目を見て柳沢は戸惑った。
優しい。
もしくは、甘い。
冷酷と言われる上司の意外な表情に柳沢の動きが止まったが。
「出せ」
その一言で慌てて柳沢は運転席に向かった。
「空調を暖房で、最大にしろ」
樹の指示に従いつつ、雨だからと車に用意しておいたバスタオルを樹に渡す。
バックミラー越しに樹が割れ物を包むかのような慎重さで小春にバスタオルをかけるのを見る。
「なんだ?」
ミラー越しに樹と目が合う。
「いえ、その……病院へ向かいますか」
「……いや」
樹は腕の中で意識を失っている小春を見下ろした。
苦しそうな呼吸を繰り返している。
異常なくらい痩せている。
医者にみせる必要があることは素人でも分かる。
だが。
「自宅へ向かえ」
「……は?」
柳沢は耳を疑った。
樹が女性を自宅へ連れ帰るなど、一度もなかった。
相手が病人で人道支援の観点からかと考えたが、すぐに否定した。
それならば救急車を呼ぶ。
自宅に連れ帰るという選択のほうがおかしい。
そう思ったとき、ヒュウッと細い音が小春の口から漏れた。
次の瞬間に激しく咳込む。
「社長、すぐに総合病院へ搬送した方が……」
「ここから一番近いのは朝比奈総合病院だな」
「あそこならば夜間の受付もやっておりますので」
「あり得ない」
吐き捨てるような低い声。
激情を孕んだ声音に柳沢は言葉を失う。
「彼女を朝比奈家に帰すわけにはいかない」
樹の言葉に柳沢は理解した。
帰す。
つまり、この女性は朝比奈家のご令嬢。
皮膚科医で美容アドバイザーの称号を持つ朝比奈千夏は知っている。
知らない顔ということは。
「彼女が、例の悪女と言われる……」
「柳沢」
樹の静かな声にゾッとし、柳沢は急いで謝罪した。
「会社が契約している病院へ……」
「そこにも情報は流れる」
樹は考え、スマートフォンを取り出した。
数分後、樹の自宅に医者がすぐ派遣されることになった。
その間も樹の視線は小春から離れなかった。
熱で苦しいのか、小春は小さく眉を寄せる。
「……い」
小さな声。
樹は小春の口元に耳を寄せる。
「……ごめんなさい……」
か細い声が漏れた。
「悪い子で……ごめんなさい……」
樹の手が止まる。
眠っているだけだというのに、小春は誰かへ謝り続けていた。
「違う」
思わず声が漏れた。
「お前は悪くない」
返事はない。
当然だ。
夢の中でさえ謝り続けるほど、この女性は追い詰められている。
「急げ」
樹の一言で黒塗りの車は豪雨を切り裂くように走り出した。
車は夜の街を進み、やがて高い塀に囲まれた広大な屋敷へ到着した。
◇◇◇
「お帰りなさいませ」
使用人たちが一斉に頭を下げる。
しかし、樹が女性を抱いている姿を見た瞬間、彼らの表情が固まった。
「客室を用意しろ」
それに構うことなく樹は屋敷へと入る。
「すぐに暖房を上げろ。濡れた服を着替えさせる者を手配しろ。医師が到着したら真っ先にここへ案内するんだ」
矢継ぎ早に指示を出す。
使用人たちは驚きながらも慌ただしく動き始めた。
その様子を見ていた執事が小さく目を見開く。
樹は他人に興味を持たない。
まして女性を気遣う姿など、十年以上の付き合いがある彼も見たことがなかったからだ。
樹はベッドへ小春をそっと横たえると、熱で赤く染まった頬へ手を添えた。
「今度は俺がお前を守る」
眠る小春には届かない。
樹は静かに目を閉じる。
「あの日の恩を返すときがきたんだ」
「千夏。少し黙ってくれ」悠真に初めて拒絶するような視線を向けられ、千夏は言葉を失った。応接室を重い沈黙が包む。「……小春さん」悠真に分かっていることは、小春が家を出てここにいること。そして。「ここにいるのは君の意思、そう思っていいですか?」「はい」小春自身が、ここにいたいと思っていること。それならば。「突然来て申し訳なかった」頭を下げた悠真に小春は軽く目を瞠り、首を横に振る。「その謝罪は樹さんと、篠原家の皆さんにお願いします」「……小春さん」「私自身は、こうしてきちんとお話しできて良かったと思っています」小春の言葉に悠真は困ったように笑う。「話は、できたのだろうか」「……言われてみれば」でも、と小春は笑う。「今度は納得できる形で終わったではありませんか」“今度は”、と含みのある言葉。(前回は……)一方的な断罪劇。酔っ払って自分の言ったことさえも定かではないという無様なもの。悠真の顔が赤くなる。「あのときのことは、できたら忘れてほしい」「……忘れるのは難しいと思います」小春が首を傾げる。「そうそう体験できるものでもない……ですよね?」確かめるように、小春はこれまでずっと黙っていた樹に声をかける。樹は小春を見たあと、悠真を見て、また小春に戻す。「二度と経験することはないだろうな」これを聞いた瞬間、悠真には分かった。『自分が小春をあんな風に捨てることはない』樹の表情からもそれは伝わってくるのだが。「そうですよね」
穏やかな空気で、このまま終わると誰もが感じていたとき。「お姉ちゃん」千夏が口を開く。「もう意地を張るのはやめなよ」「……意地?」小春は静かに聞き返す。「そう。お父さんも本当は心配してるの。だから家へ帰ろう?」小春は少しだけ目を伏せた。「千夏」「お父さんも、お姉ちゃんが謝れば許してくれるよ」「もういいの」「え?」小春は千夏を真っ直ぐ見た。「私は、朝比奈家へ帰るつもりはないの」穏やかな声だった。しかし、その言葉には迷いがなかった。「……どうして?」千夏は目を見開く。それは大袈裟なようだったが、千夏は本気で驚いていた。理解できない子どもを見るように、小春は優しく微笑んだ。「家を出ていけと言ったのは、お父様でしょう?」「それは……」真実。でも、それを認めることはできない。「お父さんも、感情的になって……」「違うわ」小春は初めて千夏の言葉を遮った。「お父様が私のやること、私の言うこと、私自身に何かを感じたことはないもの」応接室に静寂が落ちる。「だから、私に対して感情的になることはあり得ない」小春の口調は静かだが、墨でしっかりと引かれた線のようだった。断罪のように、切り裂くような言葉ではない。小春に誰かを傷つけるつもりはない。ただ、それが消えない事実なのだと言っているだけ。「私はその決定を受け入れて、出ていったの」小春はゆっくりと顔を上げた。「だから、なかったことにはできないし――しないわ」千夏は息を呑んだ。小春の言葉には恨みも悲しみもない。それを消化し、現実として受け入れた強さがあった。「……お姉ちゃん?」ぼんやりと呟いたあと
「どちらの味方とかではない」悠真は千夏を見た。「ただ会いに来たのだから会えというのは間違っていると、俺は思う」「悠真さん!」ここに来るまで一緒だったが。(なぜだろう……初めて千夏をちゃんと見た気がする)自分が信じていたことが崩れる。それを悠真も良く感じているわけではない。(でも、悪いことでもない気がする)自分の中でつっかえていた、淀みのようなものが動く気がした。.「分かりました」樹の声に、悠真は視線を樹に戻す。樹は悠真を見たあと、控えていた柳沢に視線を向けた。「小春へこのことを伝えてくれ」「承知しました」短い指示だが、十分だった。柳沢は一礼し、応接室を後にした。そして温室に向かう。小春は温室でサボテンをじっと眺めていた。植物を育てることは情操教育にいいからと樹の母親が樹に薦め、一番手がかからなさそうだからと選んだものだ。小春の手には霧吹きがあり、サボテンもみずみずしく見える。どうやら樹は庭だけでなく、サボテンも小春に任せることにしたらしい。柳沢は口元を緩めた。「小春様」柳沢の声に振り返る。「朝比奈千夏様と、門倉悠真様がお見えです」小春の表情から笑みが消えた。静かな沈黙が流れる。「無理にお会いになる必要はありません」小春の傍にいた橘がそう声をかける。小春は橘に頷いたあと、柳沢を見た。「……樹さんは?」「小春様のお好きなように、と」「……」小春は俯き、小さく目を閉じた。婚約破棄。豪雨の夜。あのときの孤独感は、頭の隅に置くことはできても忘れられない。(きっと……)一生忘れられないだろう。どれだけ幸せになろうと、きっと永遠に忘れられない。(……でも)その記憶が痛み続けるかと言えば、そうではないのかもしれない。現に、今の小春に孤独感はない。――お好きなように、と。柳沢の言葉に、穏やかな表情の樹が重なる。小春はゆっくりと顔を上げた。「会います」「……よろしいのですか」「はい」その声は驚くほど落ち着いていた。「逃げたままでも……いいことがないので」柳沢は小さく頷く。「ご案内します」柳沢はそう言うと、小春に背を向けた。そして、ゆっくりと応接室に向かう。応接室に着くと、扉の前で柳沢は一度見た。目が合った小春は優しく微笑んだ。「心配しないでください」柳沢は頷き、扉を
篠原家の重厚な門がゆっくりと開くと、車が静かに敷地内へ入っていった。「すごい家ね」朝比奈千夏は窓の外を見回し、小さく笑う。「お姉ちゃん、いいところで暮しているみたい」門倉悠真は何も答えなかった。整えられた庭。手入れの行き届いた木々。落ち着いた雰囲気の屋敷。そのどれもが嫌味な豪華さではなく、住む人を大切にしている空気を感じさせた。玄関があると分かるロータリーに数人の使用人がいた。悠真は車を停める。「お待ちしておりました。篠原の秘書の柳沢と申します」先に降りた千夏は得意げに笑った。「門前払いされるかもって思ったのに」「ご案内いたします」「お姉様はどこですか?」その質問に微笑むものの、柳沢が応えることはない。その態度に苛立ちを感じる。だが、車を降りた悠真が先を歩きはじめたので、千夏もそれについていった。.「随分待たされるわね」当たり前のようにここまで来て。出迎えにも違和感がなかったから、悠真は気づかなかった。「事前連絡をしたのか?」「なんで?」思いもしなかったという千夏の反応に悠真は唖然とした。「篠原グループの社長の家なんだぞ?」「そうだけど、お姉ちゃんに会いに来たんだもの」「そういう問題ではなくて……」そう言い掛けたところで、扉がノックされた。ここまで案内してきた柳沢が先に部屋に入ってきて、扉を開けたままにする。次いで入ってきたのが。「お待たせしました」篠原樹だった。その圧倒的な存在感に、千夏と悠真は言葉を失った。「篠原樹です。今日は突然、何の御用ですか?」温度を感じない硬い声に、悠真の背を冷たいものが流れる。空気も薄くなった気がした。千夏も気圧されたような反応を見せ
「迎え撃つぞ」樹の一言で、篠原邸の使用人たちはすぐに動き出した。「朝比奈千夏と門倉悠真は、現在こちらへ向かっています」「到着予定は?」「約三十分後です」樹は静かに頷く。「警備へ連絡しろ」「はい」「二人が来ても騒ぎを起こすな。俺が話を聞くまで、小春には近づけるな。橘」「承知しました」橘が部屋を出ると、樹は窓の外へ目を向けた。庭では、小春が庭師たちと笑いながらラベンダーを覗き込んでいる。花が咲くのを楽しみにしていると言っていた。咲いたら教えてくれるとも。その穏やかな笑顔を見つめながら、小さく息を吐いた。ようやく取り戻した穏やかさを、まためちゃくちゃにしようとしている。小春は彼らの望むように朝比奈家を出たのに。そのときの悲しみも苦しみも無視して。自分たちの都合で振り回す。その理不尽さに、樹の胸の奥が熱くなる。◇◇◇その頃、篠原家に向かう車の中には、重苦しい沈黙が流れていた。運転する悠真は前を見つめたまま、一言も口を開かない。その横で、朝比奈千夏はスマートフォンを眺めながら小さく笑った。「どうした?」悠真は視線を向けることなく尋ねる。「別に」「……そうか」悠真がそれ以上追及しないことに千夏が目を釣り上げる。「いったい何?」「いや……時差のせいか、疲れがな」悠真は大きく息を吐いた。疲れている。でも、精神的な疲れもある。以前なら、小春の話題が出れば『また何かしたのか』と思った。当たり前のように。ろくに考えず。でも、いまは違う。小春は本当にそんな人だったのか?千夏たちが言うような人間だったのか?でも、それを疑う勇気はない。もし嘘なら?千夏は?(考えたくない)でも、時間が経つにつれ、以前は気づかなかった違和感が、少しずつ形になっている。「ねえ、悠真。お姉ちゃんのこと考えてるでしょ」「……どういう意味だ」「そのままの意味」そんなことないと否定することを千夏が求めていることは分かった。でも、悠真は否定しなかった。「少し気になるだけだ」千夏は不機嫌な顔になったが。「今、お姉ちゃんは篠原樹のところにいるんでしょう?」「らしいな」悠真は小さく頷いた。「気にならない?」千夏は意味深に微笑む。「お姉ちゃんと篠原樹って、どういう関係何だと思う?」「……え?」「だって、一緒に暮らし
翌日。都内ホテルのラウンジで、千夏は門倉悠真と向かい合っていた。悠真の傍には大きなスーツケース。「帰国早々、呼び出してごめんね」千夏が笑顔で言うと、悠真はコーヒーカップを手にしたまま尋ねる。「本当に小春さんに会うのか?」「そうよ」千夏は楽しそうに頷く。そんな千夏を悠真はじっと見る。「お父様が謝りにいけって……」どこか納得していない顔で、千夏は悠真を見る。「悠真さんだって、謝るべきだって言ってたじゃない」「当然だろう。友人たちが開いてくれた壮行会で酔っ払ってあんな馬鹿げたことを……」「馬鹿げたって……結婚しようって言ったことも馬鹿げたことなの?」「それは違う。結婚しようと言ったのは俺の本心だ。だが、俺は小春さんと婚約していた。その状態のまま千夏と関係を持ったのは……良くなかった」そう言ったあと、悠真は大きくため息をついた。自分が酒に弱いことは自覚している。そして酒に酔うと気が大きくなり、それで何度もトラブルを起こしている。だから、悠真は基本的に酒は飲まない。飲んだとしても、乾杯の一杯。それさえも出来るならば残している。だから、壮行会のことは後悔している。病院関係者だけの予定が、千夏が「せっかくだから」と大学のサークル仲間まで招いた。彼らに悪意があったわけではないが、昔から悪ノリしやすく、ウーロン茶を飲んでいたはずなのに、いつの間にか酒を飲まされていた。。こういうことは初めてではない。学生時代はよくあった。だが、大学を卒業してからはない。医療に携わる者として、酒ぐせの悪さは自覚していたから気をつけていた。それなのに。「あんなドラマのような断罪劇なんてして……自分で自分が恥ずかしいよ」「でも、お姉ちゃんは私を昔から虐めてたんだよ」「そうだとしても、それは俺たちが不義をしていい理由にはならないだろう」壮行会の醜態は、参加していた友人たちのSNSであとから知った。彼らはドラマのようだと賞賛していた。コメントにも賞賛はあったが、中には「婚約者の妹と浮気していた最低男」と悠真を罵るものもあった。「小春さんは、あの壮行会のあとに家を出ていってしまったんだろう?」「そうよ」不思議そうに首を傾げる千夏を悠真はじっと見た。「だから、謝る必要はないと言ったのは千夏だよな?」「それは……」「それなのに、今度は会